「懲りずにコラム」 2004年8月上旬号
「ああ、長嶋ジャパン!!」
暑さと長旅がこたえるからと医者に止められ、本人はアテネに行けない? らしいのに、
「フォア・ザ・フラッグ」長嶋ジャパンという、カリスマ性を利用しようという魂胆だろうか。
ヘッドコーチや代表選手が声をそろえて、ベンチにいると思って戦うとか、カントクのために必ず金メダルを持って帰るとか、
今から、どこかの宗教団体のような、不気味な雰囲気を漂わせている……。
しかし、杖を突かないで歩けるとか再発の恐れはないなどと、容態が回復しているというわりに、
写真や映像がないのはなぜだろう。勘ぐるに、なんら"国益"に利するとも思われないのに、
連日あの"多国籍一家"の一挙一動を伝えるわがマスコミは、こと"ミスター"に関しては、自主規制という報道管制でも敷いているのだろうか。
ところで、重病だか仮病だかで、うやむやのまま元脱走兵を"一時帰国"させたコイズミ首相は、
この問題でなぜ沈黙を守っているのだろう? いまや国家の命運を左右する?「長嶋ジャパン」、本人は行きたいというのだから、
政府専用機を出すぐらいの権限はあるだろうに。こんな"平和目的"のチャンスはめったにない!? 支持率を回復させる絶好のチャンスではないか!!
それとも、「冬ソナ」の韓国美人女優を迎えて、「鼻の下が長くなる」などと下卑た発言しかできないなど、
オリンピックどころじゃない心境か。
いや、ひょっとすると、15日のイタリアとの第1戦に、ミスターがアテネの"貴賓席"にいたりして!!
それこそ超法規的措置、彼一流の"サプライズ"?! でも、当日は、わが国の国恥日、いや敗戦記念日である、大丈夫かなあ。
ともあれ、金メダルが取れなかった場合に、わがナショナリストたちが、ナガシマ不在を言い訳にしないことを祈るのみである。
ついでにいえば、「フォア・ザ・フラッグ」のフラッグは、日の丸でも星条旗でもよく、はたまた赤旗やアヲハタでもよいのかしらん!?
「常識? 非ジョーシキ!」その1
東大法学部の学生でさえ? 新聞を読まないのだそうだ。ある日、政治学部の教授が聞いたところ、
90人のうち読んだのは10人だが、うち6人はスポーツ新聞だったという。
「この人たちが将来、日本の政治にかかわっていくかと思うと、心が寒くなりましたよ」と、その教授が嘆いていたと、
人類学者の河合雅雄さんは大学名を伏せて報告する(東京04・07・28)。
日本人の新聞(活字)離れは、いまに始まったことではない。春夏の甲子園がにぎやかなのも、巨人戦が人気だったのも、
朝日・毎日・読売のそろい踏みのおかげ、つまりは新聞拡販が目的で、選手のためでも、ファンのためでもないのが"野球"なのである。
いま、男親でさえ「おれおれ詐欺」に、引っかかるのは新聞を読んでいないからでは、との田辺聖子さんのスルドイ?
指摘にもあるように(東京04・08・01)、読者は広告のチラシに目をやるだけで、新聞を読んでいない証拠である。
日刊ゲンダイが、当初アンチ巨人で売り出したのは、巨人に人気があったからで、いまは昔の話。
プロ野球1リーグ制にこだわる、巨人オーナーの「たかが選手ごとき」発言も、すべては新聞が売れない危機意識、からであろう。
それが証拠に、このオーナー、「小泉首相は読売新聞を熟読しなかったから選挙に負けた」と言ったとか(週刊現代04・08・14号)。
いまどき、新聞を"熟読"するなんて……。
かたや、本が売れないのも深刻らしいが、たとえば岩波書店に就職する学生ですら、岩波新書を読んではいない、
というご時世(同社OBの嘆き)。マガジンハウスの場合は、「ダ・カーポ」を愛読していると志望者に胸を張られて、
「あれは就職対策雑誌だよ?!」と役員は嘆いたという。
ともあれ、人生いろいろ宰相をいただく一方、コンビニで用を足し、インターネットやケータイに時間と"思慮分別"を取られ、
活字から知識を得たり、立ち止まって人生を考えたりする暇のない、わが国民は、何を生きがいに、そして、これからどこへ行くのでしょう?!
「常識? 非ジョーシキ!」その2
友人はいった。何が常識か分からなくなった、と。ある専門学校の講師を引き受けたとき、
「とにかく、怒鳴らないでください」といわれ、なぜ? と思ったが、開始10分もしないうちに、あちこちで私語が飛び交い、
なるほどと思ったという。聞く耳持たぬ若者にあきれ、居眠りしてくれるほうが、よっぽどましだったと、彼はいう。
学校の真意は、怒鳴れば、お客さん(学生)が来なくなり、経営難になるというわけだった……。
これは主に高卒生が相手だが、大学生ならびにOBも、似たようなもの、と別の友人はいう。
最近の学生は静かだなあ、と思っていると、ケータイに向かい、メールを打っている姿が目立つという。
彼らは、何のために教室にいるのだろう? 嫌ならば、やめるか、来なければいいのにと思うのだが、なにを考えているのか、
さっぱり分からないそうだ。
その彼らに原稿を書かせると、「教科書」を「教課書」、「受験」を「授験」、「暫定政府」を「斬定政府」、
「雑誌」を「雑読」、「被害」を「非害」、「連絡」を「練絡」、「拝啓」を「拝敬」などと、器用に当てはめるそうだ。
手紙の書き方や敬語表現は、日ごろの習慣がないからだと同情もするが、「ご健勝」を「ご健祥」などと、
生半可な知識では先が思いやられると嘆く。
試しに擬似「エントリーシート」(志望書)を書かせてみると、とんでもない記入が目立つという。
たとえば、個人情報に関して、母親を"知人"と思っていたり、乳幼児を"無職"としたり、健康に関しては、
血液型のほか"特記事項"に、「きわめて健康」などと書くものがいるという。
私の経験でいえば、高校1年生(15歳)で、すでに、所定の文書の各項に対し的確に書けるものと、
そうでないものがいるのも事実(似非エッセイ2003年7月上旬号「社会性とは…」参照)。
つまり、その差は、年齢に関係なく、訓練であり、教育であり、また家庭環境による。
知識の詰め込みだけでは、"人"はつくれない!
日の丸・君が代より先にやるべきことが、たくさんあることに目覚めよ、各地の教育委員長どの!!
(以上、2004年8月4日までの執筆)
kenha@wj8.so-net.ne.jp