飽きずにエッセイ2005年10月上旬号
「近ごろの、葬儀事情」
久しぶりに? 葬式に出た。因縁浅からぬ40年来の友人だったからだ。
先月なかば、教授会の最中に、「うッ」といったか、隣の同僚にもたれかかるように倒れ、近くの大学病院に運び込まれたものの、
電気ショックも効かず脳死状態のまま、5日目に帰らぬ人となった。心筋梗塞という。学問的業績はまずまず、
同僚に信頼され学生にも慕われていたという。
さて、本題は葬儀の話。奥さんが喪主を務める純然たるM家の葬儀だが、現場(教授会)で倒れたからか、ご大層な大学だからか、
同僚教授を葬儀委員長に立てるなど、その大学が全面的に仕切るものとなっていた。最寄り駅から斎場までのわずかな距離に3か所、
学生が立っており(日当2千円)、受付にはオジサン数人がすわり、筆はおろかサインペンでもなく、ちびたボールペンもどきで、
名前と住所を書かせられた(日当5千円?)。
立派な祭壇を見ると、左右にかなりの花が並んでいる。各10枚以上の立て札をみると、その多くは"主催"大学関係者ではないか。
そこまでは、単なる顕示欲!! ですませられるが、故人はもう少し幅広い交遊があったはずなのに、そのデモンストレーションは異様に写った。
さらに、弔辞を読む3人のうち、奥さんは1人をわが学友に頼んでいたが、大学側から横やりが入り、降ろされてしまったことだ。
そして、告別式。遺族と大学側が両端に座を占めるのは、席順も前夜どおり。参列者は大勢の学生を含め、100人は下らないだろう。
読経の中での焼香と、弔辞・弔電の読み上げは、予定通りきっちり1時間ですんだ。教授たちの弔辞に、あちこちからすすり泣く声は聞こえるものの、
私たち仲間は白けていた。
3人とも、故人の業績や大学教育での熱意などを褒め称え(1人は"世間知らず"を賞賛していたが)、とつぜんのことに驚き、
落胆の気持ちを盛り込むのは定番で個性も愛情も感じられない。そして、見事に欠落していたのは、だれも残された家族(妻と娘)に言及しないことだった。
居た堪れなくなった私は、弔辞の最中に隣の仲間にささやいた。「彼らに抗議する」。友はいう「葬儀委員長に言うんだな」。
葬儀社の指示にしたがって、みな席を立ちはじめた。私は葬儀委員長に近づき、「友人代表の弔辞を止めさせて、
あなた方ばかりで弔辞を読むのはおかしいではないか。さらに、だれ一人奥さん方のことに言及しないのはどういうことか。
(故人のことを)世間知らずといったが、あなた方こそ"世間知らず"ではないか」と。
委員長は「すみません」とは言ったが、反省の色などあろうはずもなかった。死んだ人のことも大事ではあるが、
遺族への配慮を欠く人間たちが、内輪で威張りあうのが"学者の世界"であろうか。
ところが、まだ上手があった。彼ら"厚顔無恥""世間知らず"を相手に張り合ったのが、遺族がこれからも住む町の町内会だそうだ。
いわく、大学(との関係)はこの一回限りだが、町内会はずっと続くとしゃしゃり出てきて、「手伝わせろ、仕事の半分を寄こせ」と談判したという。
しかし、大学側のガードは固く、やむなく彼らは裏方(配膳係など)に回ったそうだ。何人いたか知らないが、
しっかり謝礼(1人1万円)を受け取っていったという。そのお金が町内会に入るわけはなく、飲み代になるのだという。
以上、"死人に口なし?!"の顛末記、でした。
「毎度お馴染み、ではない国勢調査」
平成17年8月8日付の「国勢調査員に任命します 期間は平成17年10月19日まで 麻生太郎総務大臣」という"辞令"を受け取り、
臨時の国家公務員となった調査員は全国でおよそ85万人もいるという。
なかには、配布中にケータイ電話を使っていて調査票を盗まれた主婦や、思うように回収できないと焼き捨てた男性(66歳)や、
回収したものを盗まれたり、紛失した例が何件もあったという。資格審査はきちんとやっていたのでしょうな。
一方、調査員になりすまして調査表をだまし取ったり、金を請求したりと、時代は愉快犯?ばかり、
何のためにするのか分からないことが全国的に起こっている。
今回の調査には「少子化の原因となっている出生率の低下の実態を把握し、その背景を分析するための基礎データを提供するという責務がある」(東京05・10・7夕)そうだが、
これなど前回、いや前々回にやるべきではなかったか。
なかには、外国人の動向を調べるためではないか、という穿った見方もある。その外国人を含め、どれぐらいの人がいるのか。
調査結果の出るのだいぶ先だが、昨年10月1日現在の推計人口は1億2,768万7千人とのこと。遡ってみると、
1920(大正9)年の第1回調査では、総人口は7,698万8,379人(うち内地総人口は5,596万3,053人)とあるから、
残り2,102万5,326人は外地にいたか、植民地の人たちだったことになる。
1億人を突破したのは1966年で、1億55万4,894人と法務省住民登録集計はいうが、実際に超えていたのは第5回(昭和15年/1940年)のときで、
1億522万6,101人だった。もっとも、これにもカラクリがあって、内地人口7,311万4,308人に、外地の人たち3,211万1,793人の合計であった。
つまり、わが大日本帝国は、相当な水増しをやっていたといえるが、今度は外国籍の人たちを排斥するのではないでしょうねえ。
《余談ですが、この昭和15年は“皇紀2600年”を盛大に祝い、それに花を添えるはずだった万国博覧会と東京オリムピックが幻に終りました。
三年前(12・7・7)に日中戦争を始めたのが原因で、13年7月15日、政府は返上せざるを得なかったのです》
「同窓会、あれこれ」その1
上記「近ごろの、葬儀事情」は、大学時代の"ミニ同窓会"の報告ともなっている。
両日に会った男7人、女4人とは十数年ぶりの再会で、「お互い元気でよかった」。
一方、今月9,10日は3年に1度の小学校の同窓会(1泊旅行)で、浜名湖畔のホテルに15人が集まった(男11人、女4人)。
二組70数名の卒業生からすると、ちと少ないようだ。幹事は「見通しが甘かった」と悔やむが、なに還暦を越える年頃は、
病気がちだとか親の介護(3人)など、1泊でなくても参加は難しいよと慰めた。
その他の欠席は、仕事があり3人、お祭りの総代・世話役で5人、自治会会長・役員で2人、海外を含む旅行で2人など、
そして今年すでに男女2人が亡くなっている。Aさんに関しては、前回(の1泊旅行)にその兆候はあったと、
穿った見方をするものもいた。
小人数だけあって、大広間での夕食は和やかであったが、宴席の途中で、にわか"患者"を相手に足裏健康マッサージを始めたS君には驚いた。
もう一人のS君と免許を取り、集会所などを使って教えているそうだ。もちろん、ボランティアで。
同室となったM君とは、その昔、彼の家の畑でスイカドロボーしたことなどを思い出す。浜松から来た大学3年生のK君は、
そろそろ卒論に取り組まなくてはとか、中国語が難しくてなどというが、自分より若い教授の"愚痴の聞き役"とかで、
満更でもなさそうなキャンパスライフを語っていた。
一方、小学3年の5月に福井県内からこの学校に転校して、卒業式を待たず、2月途中で大阪に行った私だが、
皆よく覚えていてくれる。びっくりしたのは「君のお母さんは色白で品のいい人だった。家に行くといつもカレーのにおいがした」と、
2人も口をそろえて言うではないか。私にすれば、当時の母はやつれ、疲れた姿しか思い浮かばないし、カレーといえば、
N君の家とお母さんを思い出すだけなのだが…。
後半は、カラオケに付き合わされ、ぜひ君の声を聞きたいといわれたが、もちろん歌うわけがない。
私にできるのは、合いの手を入れること、サノ君の美声にも「サノ酔い酔い!」なんちゃって(これは、少し受けましたがね)。
「同窓会、あれこれ」その2
翌朝は、母校を訪問することになった。「入学試験はあるの」、「もちろん、論文だぞ」と冗談を言い合いながら、クルマで30分ぐらいのところ、
男女8人が4台に分乗して向かった。
明治6年の開校という公立小学校である。かつての木造校舎は跡形もなく、白い3階建てが2棟並んでいる。
少子化の時代に町の人口が増え、マンモス校になったそうで、プールが大小二つもある。グランドも2面あり、
下手な大学より広いのじゃないかと思った。
お目当ては校門そばの大きな大王松〈だいおうしょう〉、相変わらず立派で、まだ伸びるのではという声もあったほどだ。
敷地もゆったりしている。クラスの立て札で区切られた、小さな菜園のあいだに百葉箱〈ひゃくようそう〉もあり、懐かしかった。
その反対側の校舎には普通のに比べ、小さな教室が3つ並んでいる。窓からのぞいたO君は養護教室ではないかという。
見ると、机が1つか2つしかない。授業風景を想像してみて、複雑な気持ちになった。
校門近くに戻る。位置は変わっていたが、薪をしょって本を読む二宮金次郎も健在だった。
今は流行らないものと思っていたが、神奈川県と並んで静岡県では"現役"だそうだ。私なぞ若かりしころ"二宮損得"なんて揶揄していたのだが…。
10時半に現地解散し、浜松に帰る友人の車に乗せてもらった。浜名バイパスは海岸線を通っている。
混んでいるのは先ごろ無料になったからだという。左側に防風林である松林が延々と続き、やがて浜名湖上を通過し始めると、
右に太平洋、左に昨夜泊まったホテルが見える。
ホテルのフロントの上に、特大の色紙で「游」(=浮び)と「和」の字が掲げられていた。"おもてなしの心"をさすそうだが、
「游」はわがペンネームでもあると支配人に話すと、偶然の一致に、ちょっとびっくりしていたことを思い出す。
浜松市内に入ると、友人は大学を案内しようかという。「小学校の次は、いきなり大学か」と思わず、つぶやく。
60を過ぎての学生でも学割のきく彼だが、クルマ使用は禁止されており、“違法”駐車と相成った。
数年前にできたばかりの現代的なその大学は斬新な建物である。今の彼は充実しているという。こんな人生もあってよいのだ。
一方、私は宮城道雄の随筆集『新編 春の海』(岩波文庫)を持っていた。目の見えない"幸せ"を語って尽きない話ばかりだが、
市内を走っているとき、車のラジオから静かに流れる琴・三弦は、彼の作「落ち葉の踊り」と「崑崙の珠」だった。
この偶然も、よい旅の終りを象徴しているようで、うれしく思った。
(以上、05年10月12日までの執筆)
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