似非エッセイ 2003年1月上旬号
予告編「かえる その1」
午年生まれの私は、今年還暦を迎えたものの、「健午」の
「午」を「牛」に何度もまちがえられた。
まず、年賀状2件、八月カルチャーセンターのチラシ1件
(すぐ替えてもらう)、10月しのぶ会の案内1件、12月に
は先輩の娘さんのリサイタルの案内状1件と大学後輩のメ
ール1件などなど。
共通点は、新しい人たちばかりで、パソコン入力が多い。
「ケンゴ」を「ケンギュウ」と読むのだろうか。しかし
「ケンギュウ」は「牽牛」としか出てこないのに。
だいぶ苦労されての"お間違い"のようだが、30年連れ添
ったカミさん曰く、「いっそ、健牛に替えたら」。
60年も親しんできた名前に、なんて事を! と思わないで
もないが、これも一つの"還暦"かもしれない。
来年は「羊」でしたね。いや「未」でした。やれやれ (2002・12・28の執筆)
「囲むだけで、ちがいが分かる?(かえる その2)」
エッセイとコラムの違いは、どこにあるのか。
ある国語辞典によると、前者は「構成や表現の形式に一定のきまりのない自由な随筆的散文」とあり、
後者は「(新聞・雑誌などの)小さくまとまった記事を線でかこんで載せるもの」とある。
分かったような分からないような説明だが、勝手に解釈すれば、
エッセイを線でかこんだ場合も、コラムになるということだろう。
これも「かえる」の一種といえる。
私の試みるエッセイは、その昔、「身辺雑記」と表現されたジャンル(これもアイマイだが)
の類である。時に、政治や社会事象に関する話題も取り上げるかもしれないが、
その時は"線でかこむ"の注を入れることにしよう。
もっとも、欧米では、数紙にコラム欄を持つなど、コラムニストは確立しているようだが、
日本では自分で名乗ればどちらにもなれそうだ。
いずれにしても、『似非エッセイ』にはちがいない。
「やはり景品は偉大(かえる その3)」
昨年11月末のこと。帰宅すると、カミさんが「来月からS新聞に替えたわよ、いいでしょ」という。
それまで20数年、T新聞を愛読していたわが家に何が起こったのか。
自分の身につけるものや必要な家財道具でも、迷いに迷ってなかなか買わないという彼女が、
私の名前で勝手に契約しまったのである。
そして、「スヌーピィのブランケットが欲しかったの」とのたまうた。
6か月の予約購読をすれば、そのブランケット(毛布)をくれるのだという。
「最近、T新聞は紙面を替えて面白くなくなったし」といわれると、私も同じ思いだったので、
「それもいいか」と受け入れた。
しかし、彼女には悩みがあった。きっと娘が欲しがるだろうな。
その時はどうしようというものだが、これは"騒ぎ"が起こる前に解決してしまった。
私が家にいる時、販売店のおじさんが「契約をお願いします」といいつつ、差し出したものを、
私は知らずに受け取った。しかし、契約の用紙に見覚えがあり、「これでしょ?」と見せると、
「そうです。もう済んでいましたか」と怪訝な顔をしたものの、
それ(ブランケット)を返せとはいわなかったのである。
ちなみに、新聞のサイズにはブランケット版とタブロイド版(夕刊Fなど)があるが、
普通の新聞はブランケット版である。さて、他紙は何をくれるのかな?
「第二の人生(かえる その4)」
年賀状は、出した(くれることを期待した)人から来ることは少なく、
思わぬ人から来るものだ。
例年とちがうのは、還暦(定年)を迎えた友人たちの状況。
悠々自適組もいるが、家の改築(新築、移転、別荘)の報告が多い。
また、会社を倒産?させて健康を回復した人、大手企業から"天下った"再就職組もおれば、
この4月から大学の講師になる人、大学に入学する人もいる。
"第二の人生"というが、人さまざま。なかには、目的のない人、
やりたいことの見つからない人もいて、「濡れ落ち葉」や「定年離婚」は当たり前なのか、
もはや死語となり、最近はほとんど聞かれなくなった。
ふと、わが身を考える。53歳で、勤めを辞めた私には定年がない。
そのころ、小学生だった息子から「定年て何?」と聞かれ、
「会社などを辞めることで、たとえば60歳」と答えると、
「お父さんは?」と二の矢が飛んできた。
思わず、「自分で決める!」といって、辞めてしまったのだ。
したがって、私には第二の人生もない、ことになる。
人生は一度しかない、これは替えられないのである。
(以上、2003・01・06までの執筆)
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