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からむコラム 2002年3月号

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「アメリカ万歳?の、塩湖(ソルトレーク)市オリンピック雑感」
 ソルトレーク五輪も後味悪く終わり、日本のメダル10個の胸算用も空々しく、NHKに限らず大量に取材人を送り込んだ 民放が 「惜しいですねえ」「もう少しでしたが」「4年後に期待しましょう」などと連発。 後半になるにしたがって、しゃべるほうも聞くほうも疲れる一方であった。
 とはいえ、里谷多英の銅、同じく清水宏保の銀という、長野大会で金メダルを取った二人の連続メダル獲得は賞賛に値すると称えておこう。 あとは、CM目当てのマスコミがでっち上げた"国内専用"の強豪、有力選手だけであったのは、毎度の通り。
 さらに、そのインタビューを聞いていると、これが大人の発言か、あるいはマスメディアに勤める人間の言葉かと情けなる母国人も多かったのではないか。 里谷(フジテレビ勤務)のインタビュー「すごい。最高にうれしい。長野五輪は(亡くなった)お父さんが(金メダルを)取らせてくれたと思ったけど、 今度は自分の力で取ったと思った」(東京2・11、カッコ内は記者の補足)。 小学生でもあるまいに、25歳にもなって、自分の父親のことを"お父さん"というのはいかがなものか。
 もう一人いる。スケルトンに出場した信濃毎日新聞文化部記者の中山英子で、公式練習のあとに「すごく気持ちよくやれています。 体調がいいし、そこそこ滑れています」(東京2・20夕刊)と答えているのは品がない。彼女は31歳である。
 これは「ら抜き言葉」に対し「て入れ言葉」と<私が勝手に>言うのだが、せめて「…やっています」、 そして「順調です」とか「思い通りにすべることができました」ぐらいは言って欲しかった。 もっとも、取材した記者も若かったし、東京にいる年配のデスクも「(原稿は)このままで、いいんじゃないの」だったのかもしれない。
いずれにしても、マスコミ人がタレント並みの言葉遣いしかできないとは情けない。

「外務省役人は、外交官ではなく主人に尻尾を振るイヌの群れ?」
 田中・鈴木+α問題が、思わぬ展開になろうとは、政府自民党や外務省役人にも考え及ばなかったのではないか。 もちろん、鈴木ムネオ議員自身にも。
 "恫喝"政治家がどうして生まれたのか。「陰の外相」と、それこそ陰で囁き、尻尾を振るヤツはかず知れず、 "インテリ"役人は"ヤクザ"に弱いとか。ともあれ、外務省に利権ありと目をつけたのは慧眼ではないか。 "外交は治外法権"を地で行っていたようなものだが、NGOが「非政府組織」であると知らなかったのは、 当人も尻尾振り役人にとっても痛恨の極みであろう。名前を変えるかな、「無念男」とでも…。
 私が数年前から不思議に思っていたのは、わが国の要人が外国を訪問し、その国の元首などと会見するシーンで、 必ずムネオ氏の姿が見られたことだ。なぜいつもくっついて行っているのだろうと思っていたが、 シャドウ(陰の外相)とはつゆ知らなかった。
 この国の政治家たちの疑惑解明がいつもウヤムヤに終るのは、証人喚問でもほどほどに喋るか、 「覚えがない」とでも言えば、もういいじゃないかと数の論理で、事を収めてしまうからだった。 そして、たとえ離党、あるいは議員を辞職しても、次の選挙で当選すれば、「ミソギは済んだ」と堂々と政界に復帰する。 当選するのは当然である。地方へ行けばいくほど、「先生は悪くない。マスコミはウソばかり書いている」などという言葉が信じられる。 後援会に反対者はいないからだ。
 しかし、今回ばかりはそうは問屋が卸さないであろう。 集金力は自民党で3番目、次世代の総裁(総理)候補とも言われていたそうだが、 これでその”目”もなくなったのではないか。 さらに、「社会通念上、許されない」などという、ほとんど死語に近い表現を甦らせた功績は大きい。 しかし、今年の流行語大賞の有力候補であろうと、一時は思ったが、どうも「ずぶずぶの関係」とか 「疑惑の総合商社」などのほうが有力なのは残念である。

「ボランティアとは"他発的"なもの?」
 ボランティア精神とか、ボランティア活動という言葉が一般化したのは、阪神大震災での学生など若者の救援活動以後だが、 どうも釈然としないところもある。
 英語の名詞volunteer(ボランティア)は「1、(…の)志願者 2、志願兵・義勇兵」とあり、 形容詞voluntary(ボランタリィ)は、「1、(強制ではなく)自由意志でなされる 2、(報酬なしで)みずから進んでする」とある。
 つまり、報酬などをあてにせず、自発的に行う奉仕活動をさすわけで、たとえば近所の掃除をするとか老人施設を慰問するなど、 だれに頼まれたわけでもなく社会奉仕をするのが、本来のボランティア活動であろう。
 ところが、日本では「形容詞」の意味を「名詞」として使い、拡大解釈しているところに混乱が起きている。 新聞にも「活動は無報酬でボランティア」などという、「馬から落ちて落馬した」的な表現がある。
 "ただ働き"を「ボランティアだよ」というのはご愛敬だが、テレビタレントがチャリティショーなどのあとで、 「せめて、お礼ぐらい言ってほしい」というセリフを吐くのはどうか。 一方、奉仕した側が「やらせてもらって、ありがとうと思う」気持ちが大事という人もいるという。
 オリンピックやサッカーW杯の開催にあたり、各国語の通訳や案内係の「ボランティア募集」という例や公の機関、 たとえば社会福祉協議会などが予算を取って、障害者の手助けを住民に委託する制度が混乱の一因でもある。
 ボランティア・センターなどという名称をつけ、一定の報酬を伴うが、場合によっては拘束されているにもかかわらず無報酬となるなど、 ボランティアという言葉が都合よく使い分けられている。 いや、低額の報酬しか支払えないという言訳が、この国のボランティア精神の"真髄"なのかもしれない。
 もっと問題なのは、中高生に何らかのボランティア活動を義務化し、単位を与えるという森前首相時代に提言した教育改革国民会議の発想である。 落ちこぼれや、非行に走る生徒を救うのが目的だというが、それは"格子なき牢獄"での労働とは言えないか。 指示されて、イヤイヤやる奉仕活動などで、いまの若者の非行等がなくなると、この国のお偉方や文科省の役人が本気で考えているならば、 日本に未来はない。

「"民間"でも"非議員"でもオカシイぞ」
 田中真紀子氏が外務大臣を更迭され、後任に任命されたのは川口順子環境大臣で、その"所属"に「民間」(すなわち、民間人)とあった。 経歴等をみると、通産省審議官・米国公使・元サントリー常務などと書いてある。 中央官庁出身の役人であり、公使の経験もありながら、"民間"とはどういうことか。
 小渕・森内閣時代の経済企画庁長官だった堺屋太一(作家)も、経済評論家・税制調査会委員で、 元通産省の役人なのに、やはり"民間"であった。
 民間とは、@「人民の間」、A「公の機関に属していないこと」などとたいがいの辞書にあるが、 では「民間人」は、どういう立場の人を指すのだろうか。 各社の辞典担当者も苦慮したのか、小学館の『日本国語大辞典K』第二版に「公の機関に所属していない人。在野の人」とある以外、 ほとんど見当たらなかった。
 一般的にみれば、川口・堺屋の両氏は"公の機関に所属していた人"であるし、 現内閣の遠山敦子(文部科学相)・竹中平蔵(経済財政相)両氏も、 それぞれ国立美術館理事長(元トルコ大使・文化庁長官)であり、 慶応大学教授・IT戦略本部員(元経済戦略会議員)である。 とても民間人とはいえない。
 しかし、政治の世界で民間(人)とは選挙の洗礼を受けない人という意味らしく、 閣僚を自民党各派閥所属や参議院などと表わす慣例から、そうでない人を民間と表記していたのだろう。 オカシイではないかと新聞を調べてみると、朝日は2000年7月の第2次森連立内閣から、 堺屋(再任)・川口(新任)の2人を「非議員」と表記を改め、他紙では日経が同年12月の内閣改造で、 非議員の表示をしているが、毎日・読売・東京等は従来どおり「民間」表記である。 一部新聞では改善されたように見えるが、やはり、人の肩書に「非議員」などと、 "非"を冠するのは失礼ではないか。
 もう一度辞書をみると、民間外交・民間活力・民間協力・民間芸能・民間信仰・民間説話・民間伝承・民間放送・民間薬・民間療法などと、 民間が並ぶが、少しずつ意味合いが違っている。
 こういう例もある。「小中にも民間人校長/埼玉県教委、4月から」(東京2・22夕刊)によると、 県内の公立小中各1校で民間人校長を採用するもので、広島県についで2番目とある。 この場合の「民間人」は"教員免許を持たない人"と学校教育法にあるようで、 2人は民間企業出身者が選ばれている。
 さらに、コンゴ出身の私設秘書について、「民間人と認識している」とムネオ議員が証言? した。 このこと一つをとっても、日本人の言葉遣いは融通無碍、無原則、ご都合主義なのだが、 "遺憾に思う"のは私だけか。われら民間(人)は安閑としておれませんぞ。

(以上、2002・3・19までの執筆)


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