”書くこと”−処女作論考『貧しき人々』について
橋本健午(露文3年)
無名の作家が、その処女作によって一躍有名になる、まさに"ある朝目を覚ますと、私は有名になっていた"。
それは、作家を目指すものにとって、どんなに幸福な瞬間であろうか!
では、「貧しき人々」を書いた、わがドストエフスキーの場合はどうであっただろうか。
彼は、当時26才の全く無名の青年であったが、この作品に関しての有名なエピソードがある。
作者の友だちによって、この原稿が持ち込まれたとき、時の大詩人ネクラーソフは、感激のあまり、
深夜にもかかわらず、ドストエフスキーの下宿を訪ねて、いきなり彼を抱擁して、この未来の文豪を驚かせた。
一方、大批評家ベリンスキーは、彼を親しく病床に招いて、その天分を祝福したという。
こうして、「貧しき人々」はすでにネクラーソフを感激させ、ベリンスキーに折り紙をつけれれていたので、
発表後の評判がよかったのも当然であった。
また、この作品に関して、「新しいゴーゴリの出現!」という言葉が、すべての批評家の口から発せられている。
この言葉は、当時ゴーゴリのリアリズムが支配的であったことを考えれば、最大の栄誉でなければならなかった。
しかし、このことはまた、この作品が、もっぱらゴーゴリのリアリズムの立場からのみ見られていたことを意味し、
1840年代の人々が作者の才能による諸特徴およびその独自な創作作法を正しく理解し得なかったのは、
彼らがゴーゴリのリアリズムの理解の上に立ち、それから一歩も踏み出すことを欲しなかったからである。
もし、この作品が類似のリアリズムの立場でなかったならば、おそらくそんなに問題にされなかっただろうし、 またドストエフスキーが以後、小説を書いて行くことは容易ではなかっただろう。 とはいえ、この作品が好評を博し、作家としての未来を約束されたのは、彼がたとえ、どんな創作態度をとり、 また何をいおうとしても幸福なことであった。
ゴーゴリが、小地主・貴族階級のイデオローグであったのに対し、ドストエフスキーはすでに全く封建的伝統から切り放され、
都会化した、零落貴族階級の代弁者であった。
彼は、ロシア資本主義の発達による没落階級の出現、その世界を代表する作家であったのだ。
彼がのちに心理分析的作品を手がけるようになったのは、彼の性格によるもので、それはここでは述べないことにして、
処女作の迎え入れられ方を他の例で見よう。
例えば、現代フランスの女流作家フランソワーズ・サガンが18才で、「悲しみよ こんにちは」を発表したときは、
どうであっただろうか。
このときは、世界的に記録的な成功を博し、いくつかの賞をとって持てはやされたが、フランスでは、
『作家の二番目の作品を待つ』ということがいわれるそうで、彼女にとって処女作の成功は大変な重荷になったが、
しかしやがて第2作を出して、再び好評を得、作家としての地位が保証された。
サガンの作品は、いずれも目的を持たない、というより持とうとしても持ちようがない現代の青年たちが主人公であり、
彼女は、まさにそのような青年たちのイデオローグなのである。
こう見てきて、問題になることは、よきにつけ悪しきにつけ、作家は時代に制約されるものであろうか。 あるいは、そのような作品こそ、時代の要求するものであろうかという点である。
わが国では、ちょっと有名になると、すぐ大量の注文が来て、それに応じきれなくなって、
作家は未熟のまヽ、つぶされることが多い。"待って"くれないのである。
ジャーナリズムや周囲にも責任があるのだろうが、作家個人としての確固たるものがなければ、その時代をあるいは導き、
あるいは弱きもの、権力なきものの代弁をするような優れたものは、作家も作品も生まれては来ないのではないだろうか。
<1965・1・17学校の図書館にて>
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