”書くこと”−『地下生活者の手記』試論
橋本健午(露文1年)
ドストエフスキーのこの作品は、彼のその後に続く作品群「罪と罰」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」等を生み出す転機に立つものであるという。
残念ながら、まだ私はそれらを読んでいないので、先人の説に従っておくが、とりあえず、この作品についての何らかの論を進めていくことにしよう。
第一に、作者と主人公が二重写しになる点、議論調のこの小説は、大変読みづらい。 ほとんど半分は、義務感のようなもので読んでいるのだが、徐々に、私の興味をひく問題を扱っていることに気づき、 お付き合いをした。
興味をひく問題というのは、なぜ彼=主人公が、"地下生活"をしなければならなかったかという点、 つまりアウトサイダーの問題である。 C・ウイルソンがいうには、この作品は、近代文学でアウトサイダーを扱った最初の大作であるという。 この事実は重要であるが、今は別問題であるので差しおいて、地下生活をしなければならなかったことについて述べよう。
彼が地下生活をする条件はすべてそろっている。最も重要な生活の糧は、遠い親戚のものが遺産を残して死んで、
それで生活できるようになり、彼は働かなくて済むため、さっさと下級官吏を辞めてしまう。
(これは小説のプロットの組み立てにぜひとも必要なことだったのだ。なぜなら、働いているうちは、
彼は日常茶飯事に追われ、従って、自由な、そして必要な反社会的思考が出来ないからである。)
始めの方で、彼はいう……『私は単に意地悪な人間ばかりでなく、結局なにものにもなれなかった。
悪人にも、善人にも、卑劣漢にも正直者にも、英雄にも、虫けらにもなれなかった』。
続いて、自己の立場を正当化する言辞を使う。
『十九世紀の人間は精神的な意味で、専ら無性格たるべき義務がある。
ところで、性格を有する人物、即ち活動家は専ら浅薄な存在でなければならない』。
この極言の是非は問わない。極言してもしなくても同じことなのだから。
たヾ、何ものにもなれなかったという点に、すべてが要約されている。
(私は、十九世紀のロシアの事情をはっきり知らないので、何ともいえないが、
それは『十九世紀の人間は……』と置き換えてもいいところである。)
彼が、何ものにもなれなかったのは、彼がその社会で、何らの位置を占めることができなかったからである。
つまり、彼の位置がないのである。
徹底した個人主義、変質狂的ともいえる利己的な言動、そこにこそ彼の悲劇的ともいえる一面がある。
しかし、彼が、社会の内に自己の位置を持たないということは、彼が主体性なき人間でもなければ、また弱い人間でもない、
社会(現実)からの逃避―この言葉を好んで使う左翼主義者がいるが―でも、さらさらない。
少し引用が長くなるが、
『ほとんどすべての人にとって、最上の利益よりもまだ尊いような何ものかが存在していないだろうか?
……これは……他の如何なる利益よりも最も大切であり有利なのである。
この利益のためには人はもし必要とあれば、一切の法則に逆行することを辞さない。
つまり、理性、名誉、安寧、幸福――一口に言えば、こうしたすべての美しく有益なものに逆行しても、
ただ最も貴重な根本的な、最も有利な利益を獲得することさえ出来ればいいのだ』。
この利益とは、『今まで如何なる分類にも当てはまらなかったのみならず、全体にも当てはまらないような利益』である。
そして、彼は論駁する。
『諸君は人間の利益台帳を編成するのに、統計表の数字や経済学の方式の平均数をとって来たのではないか』と。
更に、『この利益の特色は、一切の分類を破壊し、人類愛論者が人類の幸福のために設けた体系を、
残らず叩き壊してしまうところにあるのだ。要するに、この利益は、すべてのものの邪魔をするのだ』。
『一体文明は、人間の内部の如何なる性質を和らげるというのだ?……文明はたヾ感覚の多面性を発達させるばかり
……それ以外の何ものでもありやしないのだ』。
『常識と科学が人間の本性を完全に再教育し、定式どおり指導するようになったら……科学そのものが人間を教導して、
人間はかつて自由意志も気まぐれも持たなかったように……人間自身はピアノの鍵盤か、
オルゴールの釘みたいなものになってしまう……。
この世界には、自然法則が厳存して、人間は自分の意欲によって実行し得るのでなく、自然の法則によって、
数学的に分類され、まるで対数表かなんぞのようになって……』。
このあたり、いささかくどくどと引用したが、要するに、主人公のいいたいことは、科学・文明の発達による、 あやまった人間の考え方によって、人間がその主体性・個性をなくし、個人の尊厳も失い、画一化された機器の部分品 (ネジのようなもの)になってしまうのを警告するにあるのだが、実際には、彼が自らいうように、 そんなことを対社会的に警告する必要なんかないのである。なぜならば、彼は社会に自分の位置を有していないからである。
この小説は、一部においても、二部においても、人間について(自分自身を含め)執拗に述べ立てる。
それは、極言すれば、彼の唯一の存在理由、すなわち社会から離れて(独立して)思考する主体であるからである。
そして、彼の結論とは、『なんにもしないのが一番いいのだ! 瞑想的惰性が一番いいのだ』ということになる。
アウトサイダーは、気がついた人間である。意識している人間である。 彼はそれ故に、社会に位置を占めることができないのだ。
彼=主人公が、地下生活者になって行くのは、一種の敗北主義かもしれない。 そしてそれは、貧困とか劣等感の所産なのだ。 自らいうように、『夜々そっと、内緒で、恐る恐る、汚らわしい淫蕩にふけっ』ていたのである。
◎第二部について…
彼は、学校時代の級友に会うが、きらわれていることを知る。
彼は級友たちのインサイダー性とは決して相容れないのだが、しかし、その場面においては、彼はそれを知らず、
逆にインサイダーとして仲間入りをしようとあせる。
◎リーザと対話すること
この場面においては、彼は恐ろしく世話やきになる。つまりは、一種のインサイダーだ。
そして、リーザをしきりに説得する。会話自体が、すごく現実的となる。それはコッケイなくらいである。
例えば、『一体君はどうだって構わないのかい、死ぬってことが?』とか『君が可哀そうなのさ』というあたり…
ところが、いざ、リーザが自分の家を訪ねてくると、美しく高潔なものは全くなくなってしまって、
たヾ、自嘲的、自虐的になるのだ。この自己分裂はどうしようもないものである。<1962・11・19記>
*故あって浄書す。これは当時、Y.H君主宰の「ドストエフスキー読書会」で発表したものである。
いちど読んだだけで、またすぐさま書き付けたもので、非常に欠点だらけである。
<1964・6・23夜>
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